排水溝に咲く花「トレニア」
トレニアがベランダの排水溝の僅かばかりの土を頼りに発芽したのは今年の5月中旬であった。
義母が癌と告知された頃である。横浜の実家から帰ってくる妻を待ちながら、暗い気持ちでベランダの花達に水をあげている時にこのトレニアに気付いたのである。
トレニアの若葉のような葉に咲く花は深い紺色に縁取られ、内部へと薄紫が続く、その途中でわずかばかりの薄黄色がアクセントとなっている。この花色を見るといつも『ぞくっ』とするのである。
トレニアは13年前に小田原で病気の父と同居をするために家を購入した時に栽培を始めた。『ぞくっ』とする、感覚はその時の記憶を呼び覚ますからであろうか。トレニアは発芽に高温を必要とし、タネも少ないので無事に育つのは毎年数株程度に限られていたが、千葉に引っ越してきてからもベランダで育っている。
今年の春もトレニアのタネ播きをした。けれど冬のような寒さが続き、発芽もせずに今年は完全に失敗に終わった。ところが、排水溝に諦めていたトレニアがこぼれダネで育っていたのである。
両親の介護に実家に行っていた妻は、我が家に戻って、この排水溝のトレニアに気付き、このことをきっかけに小田原時代にこぼれダネで咲いたインパチェンスと亡くなった私の父との暮らしのこともよく話すようなになった。
妻は横浜から千葉に帰るたびにトレニアの成長を気にかけていた。まるで、このトレニアに慰められているようでもあった。
今年の猛暑はトレニアもつらくよく萎れた。私はコンテナに咲かせているどんな花よりも排水溝に咲くトレニアを気遣い、真っ先に水を与えた。生を謳歌しているトレニアはすぐに復活してスクスク育った。
でも、水も食べ物も受け付けない義母は癌の進行と共に入退院を繰り返しながら衰弱と妄想とに襲われていった。それは時折現れる義母の妹にも伝染していった。彼女のありがたい御指導がますます困ったものに変容していった。
義母は痛みと、もって行き場のない怒りを残された時間を共有したい義父や子供家族にぶつけていった。義母は友人に羨まれるほどの恵まれた人生を過ごした。でも、現実はドラマのように穏やかなお別れはないのである。
トレニアの花が満開になる頃、『俺より先に死んではならない』と関白宣言の最後のくだりを言い続けた、優しい義父の願いも届かず、恐怖と苦痛から解放され義母は旅立った。やっと最後の最後で現実を認め、義父や妻達を受け入れて去った。
私は通夜から帰った翌朝、喪服で妻を癒したトレニアに水を与えてから下の二人の子供を連れて葬儀に向かった。
金婚式、直後から始まった怒涛のような日々も終わった。残された義父のことは少し時間がある。後は粛々と行うだけである。この間の事は、長かったのか短かったのか時間の感覚を妻はなくしているようだ。
豪放磊落と言われた義母でも最後はこんな状況に陥るのであるから、身内が介護する在宅介護に介護ウツが起きるのも頷ける。
新たなる不幸を避けるためにも問題の多い在宅介護よりも“見取り介護”に税を振り向け、少子高齢化が本格化する前に介護システムを変更すべきだと思った。
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